教えのやさしい解説

 
因行果徳の二法
 「因行果徳の二法」とは、因位の万行と果位の万徳の二法をいいます。
 因位の万行とは、九界(くかい)の行者が五十二位や六即(ろくそく)の次第階悌(かいてい)を経(へ)て修する種々の行法で、その一つに菩薩の六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)があります。
 果位の万徳とは、仏界に具わる万徳であり、仏の十号(じゅうごう)等の功徳相をいいます。
 釈尊の過去の因行を爾前(にぜん)・迹門(しゃくもん)の意から見るならば、釈尊は過去世において能施(のうせ)太子、尸毘王(しびおう)、あるいは薩?(さった)王子となって、三祇百劫(さんぎひゃっこう)、動踰塵劫(どうゆじんこう)、あるいは無量阿僧祇劫(あそうぎこう)、または三千塵点劫(じんでんこう)の間、諸仏を供養し、その功徳が満じて今日(こんにち)教主釈尊になることができたことが拝されます。
 また、本門の意から見るならば、釈尊は五百塵点劫に成道(じょうどう)した仏であり、因位もまた五百塵点劫の成道以前、本因初住(ほんにん しょじゅう)にあり、已来(いらい)長時に亘り菩薩の行を修されたことが説かれています。
 このように、「因行果徳の二法」には釈尊仏法の広い修行と深い功徳が含まれますが、釈尊は『無量義経』に、
 「未(いま)だ六波羅蜜を修行することを得ず雖(いえど)も、六波羅蜜自然に在前す」(新編法華経 四三ページ)
法華経の『方便品』には、
 「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」(同 九七ページ)
というように、六度等の煩瑣(はんさ)な修行を経ずとも、法華経には釈尊の六波羅蜜の因位も万徳もすべてが具足されていることを説き、在世滅後における法華経の流通を勧進(かんじん)されています。
 しかし、この法華経は熟脱(じゅくだつ)の衆生に対する教法であって、末法の衆生には下種の妙法こそが成仏の直道であることを知らなければなりません。
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書六五三ページ)
と説かれています。この御文を、第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段(もんだん)』で、
 「『因行果徳の二法』というは即ち前(さき)に難ずる所の権迹本(ごんしゃくほん)の教主釈尊の因行・果徳の二法なり。『妙法蓮華経の五字に具足す』というは即ち前に引く所の開結二経の本地難思(ほんち なんし)の境智の妙法なり。前に難ずる所の権迹本の因果の二法は即ちこれ所生(しょしょう)なり。前に引く所の本地難思の境智の妙法は即ちこれ能生(のうしょう)なり。所生は必ず能生に帰(き)し、権(ごん)は必ず実に帰し、迹は必ず本に帰し、脱は必ず種に帰す。故に彼の釈尊の因行・果徳の二法は妙法五字に具足す。故に『具足』というなり」(日寛上人文段集 四八四ページ)
と釈されています。すなわち、釈尊が説かれた権実・迹本の「因行果徳の二法」は、大聖人が顕された仏法の根源・能生の種である本地難思の境智の妙法にすべてが具足されているのです。
 したがって、私たち末法の凡夫は、久遠元初(がんじょ)の因果の功徳を摂(おさ)めた妙法五字の御本尊に向かい、唱題に励むとき、受持即観心の義が直ちに相成(あいな)り、久遠元初の本仏(ほんぶつ)大聖人が証得された因果一念の功徳を自然に得ることができるのです。